『OFF KAWARAのキャラクターを設定する』 OFF KAWARA project vol.1 (2015)

 

 OFF KAWARA。これは一体どういうことか。
 河原温の『日付絵画』を主題に、その作品が河原のパフォーマンス作品であると措定すること。その仮定によって、その「絵画」がパフォーマンスのドキュメントして機能するのである。この一連のプロジェクトが、「OFF KAWARA」としてのキャラクターを設定し、『日付絵画』というドキュメントから戯曲として再構成し、再演されること目指すものだ。
 そのために、「OFF KAWARA」をある一人に演じさせてみることで物語は始まるだろう。そして、その役の中で、スイッチを起動することから、「ON Kawara」から「OFF KAWARA」の日常として機能させようとしてみるものだ。
OFF/ONというスイッチは、それがOFFにもなり、ONにもなる、という相互作用によって初めて機能するものだ。OFFにはなれなかった生前。逆に、ONにはなれない死後という二つの世界を、物語的、かつ演劇的な想像力によって横断してみる試みである。

『Passing pictures action』 (2015)

 

 ここに一つの死体があるとする。

 それに関わる、三組の作家。犯人として。山内、PUGMENT、渡邉。  

 それら犯人を刑事として事情聴取する、飯岡。検死官として、解剖する飯岡。 裁判=演劇で検事として追及する飯岡。

 身振りを通して、共通化する、ひとつのここにはない身体=body=死体。  

 当初、共通の身振りは、固有の作家同士を結びつける。同じように犯罪として、芸術として、生活として、身振りは世界に共通する。似ている。 それらの関係を、つまり、それらの相似関係を暴いてしまうこと、いや、暴かれないように隠すことが、ホラーの形式なのではないか。

 例えば、殺人事件の犯人は、同じ人間であるが故に、私たちは動機が不明であることに恐怖する。  私たちは、犯人と似ている(カピバラには似ていない)、故に、わたしと犯人の境界がわからないことに、恐怖する。

 身振りも全く同じであるはずだ。

 わたしたちは、しばしば、殺人に至る身振りを、生活の隅々で、知らず知らずのうちにやってしまう。まな板で大根を切る身振りは、腕を切り落とすための身振りと。研ぐために包丁を前後させる身振りは、人間の腹部を何度も深々と刺し続ける身振りと。拳銃のトリガーは、水吹きのトリガーとあまりにも似ているのである。

 「ジェイソン」が、チェーンソーでもって木を切り落とす全く同じ身振りによって、人間の胴体も切り落とす可能性に私たちは恐怖する。

 いま、改めて、自分たちの生活、目の前の風景を見つめ、考えてみる。 人をゾンビ化させる原初は、あらゆる物語において、多様である。(ウィルス、放射線、宇宙人など)だが、恐怖の伝染は、すべて私たち人間の日々の営みの中にしかないことに注目して欲しい。

 恐怖の身振りは、このアクションから、伝染していく。

『Prepared for FIlm』 (2014)

 

『Prepared for Film』とは、フィルムのための準備という意味なのですが、そのフィルムというのは、サミュエル・ベケット作の映画の戯曲『Film』を元にしています。

 この作品は、登場人物であるバスター・キートン扮する分裂する視点EとOが主軸となって、物語を駆動させています。

 いや、物語と言っても、ただ、通りから、階段を通って、部屋に行く、というだけなんですけどね。

 ただ、そういう、なんの意味もない行為を、カメラを使って映像にすると、そこには、運動が写り込んでしまっているし、視線や視点、カメラアイや構図、なんかも見えてきて、全然意味なくはない、というか、そういう観点からすると、すっごい意味あるよ、ということが分かってきます。

 そして、そのベケットの戯曲or台本には、映像表現に関する重要な役割を持っている、というだけでなく、今回は、片想いという人間の感情に結びつけて考えて演出を行いました。

 なにかの準備をする、ということは、それが完結していない、ということです、当たり前ですが。そして、世の中、というか世界には、完結できないもの、の方が、完結したものよりも遥かに大きい比率を持っている、と僕は考えてしまいます。

 例えば、恋愛の時。ある一人が、一人の人間に想い焦がれる瞬間を想像してみると、きっと、そこには、完結した感情は存在していなくて、それは、一つの方向に向けて動き出す感情、そして、その感情が、ふたたび、その人に対して返されること、ということがセットになって始めて、それは完結することができるはず。

 きっとその瞬間は両想い、ってことになるんだろうけど、でも、そんな両想い、っていうことは厳密には、ある時、ある瞬間、それが一つではなく、二つである、二つの感情がいま確実に向き合っている、という実感がある、っていうことになるわけです。

 でも、きっと、そんな奇跡みたいな瞬間なんて、人生であるんですかね?どうなんですかね?

 僕はあると思うし、きっとベケットもある、と答えるんじゃないか、という僕なりの前提でこの作品を作ることにします。

 くり返しますが、準備をする、というのは、それがまだ完結してない、ということです。そして、準備をする、というのは、きっとそれが完結するはずだ、という希望があるからやることです。

 僕たちがやること、それは準備です。準備しかやりません。

 でも、そこには、きっと希望があります。きっと。

『あたまのうしろ』(2012-2013)

  Behind of head

 

写真を撮ったあと、見続ける風景の先に、子どもの頃に恐れた何かが横切った気がする。

『あたまのうしろ』とは、そんな写真家がどう頑張っても撮影できない不可視のものごとの総体について、名指した一般的ななにか。

もしくは、常に自分ではないものによって写真を撮らされている、と感じることに起因する、極めて個人的な命名。

写真をよく見ると、そこに全くの見たままが写されていることなど決してなく、常に自分ではない営為に裏打ちされた、他者の光景にしか見えない。

見えないことが恐いのか、それが他者だから恐いのか。

撮影行為を演劇にしてしまえば、きっとそんな風景に向き合える気がしたので、この作品を作りました。

 

 『Z/G』 (2013)

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ゾンビは政治的だ。

人がゾンビを必要とする時、その人のゾンビ的な身振りはその人自身の宣言となる。

日本において、僕はゾンビ的な身振りは疎外されているように思われた。なぜなら、日本では死後、再び生き返る人々はゾンビとはならないからだ。死後生き返る対象は、幽霊と呼ばれる。

僕は写真と身体を使って、ゾンビと幽霊の物語上の身振りを比較し、作品をつくり発表した。ゾンビは実体し、幽霊は実体しない。両者に共通するのは、死後をテーマに、物語的な想像力によって生み出されたキャラクターである点か。

『Z/G』という作品は、震災後の日本における「怖い場所」を写真イメージとして捉えることをまず起点とした。なぜなら、日本における死後の風景と、ゾンビ的な表象を比較するための素地が必要であったからだ。

その後、私はそのイメージから得た着想によって物語を作った。そして、その物語から生み出された身振りの研究を実践したものがこの作品となった。そうすることで、日本の幽霊的な身振りと、輸入されたゾンビ的な身振りとが比較され、日本の写真イメージの中で混じり合う状況を作り出すことができた。   

 

『Happy Map』(2012)

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ずっと「再演」とはなにか、と考えていたとき、ちょうど『Vision<A>』を上演した日時が、5月27日、稽古始まりは3月3日でした。5月25日まで、chim↑pomの『Real times』展が同じ会場で行われていました。Play ♯02は、その『Vision<A>』を後悔したことから始まる、再演の戯曲です。そこでは、当時の状況、表現に置ける震災を取り扱うことの葛藤など、作品に関わったありとあらゆることを「わたし」がプレゼンテーションをする作品。一方で、当時出演していた役者たちやスタッフが、その舞台にはいないが、あの時出演した役者に対して話す、という「写真プレゼンテーション演劇」を行いました。

『平原』~play♯01~ (2010−2011)

     Plane

 

スナップ写真の延長線上で、人も撮っていた。

人を撮る時に、なにかを指示したりするとき、その被写体との関係性は演出、役者の関係性と全く同じであることに気づき、そうであるならば、徹底的に演出に取り組まないと誠実ではないという確信から、写真家とモデルとの関係性を舞台化しようと試みた最初の作品。

それに加えて、写真展を行う意義として、わざわざ人に来てもらうのに報いるには、その場でしか経験できないような仕組みが必要であるとも考えていた。

テーマは、モデルのポーズをミニマルに構成していく実験を行うこと。

モデルは自分に求められた身振りを写真で常に確認しながら反復し、稽古する。そしてさらに写真に写される。

集まったこれら複数の写真を写真集のように構成し、モデルは舞台上で、写真を見ながら自分の身振りを確認しつつ、何度も反復し、次第に反復からズレていき、生身の身体に観客は注目してしまう、というものができた。

 

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A motorcycle goes to Alphaville (2008-2010)

 

映画批評を写真で行いたいとずっと考えていた。映画を写真言語で記述することを夢見ていた。そこで、J.L.ゴダール『アルファビル』を批評するための写真を構成することにした。

元となるものは二つ。

一つは今まで撮りためていたスナップ写真。

もう一つは、『アルファビル』で極めて重要なテーマである「車=宇宙船」を、自分が持つボロボロのスーパーカブに置き換えて、それに乗って東京を撮影した白黒写真。

今考えてみると、自分は決してレミー・コーション(主人公の役名)になりたかったわけではなく、単に自分と他者や都市を、映画というフィルタを通して関係性を築きたかっただけなのだと思う。

ちなみに、タイトルは、『モーターサイクルダイアリーズ』と『レニングラードカウボーイゴーアメリカ』も、もじっている。

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