top of page

『「息」をし続けている』/ "One Breath Followed by Another"

'Ningen Restaurant' curated by Chim↑Pom, Kabuki-cho, TOKYO / Performance,  Sound installation (2018)

サミュエル・ベケット「最短」の作品『息』を参照した本作は、歌舞伎町の飛び降り自殺多発地帯において、自殺者が最後に横たわった場所を具体的にリサーチして発表された作品だ。また、歌舞伎町では2020年のオリンピックに向けて再開発される真っ最中に本作品は発表されおり、新陳代謝を繰り返す街の中で横たわり「息」をし続けるパフォーマンスは様々な意義を持つだろう。

本作のパフォーマンスの概要は以下の通りである。

Chim↑Pomによる『にんげんレストラン』内において、ベケットの『息』と展示会場の目の前の道路での月間15件の飛び降り事故についての三野のレクチャーパフォーマンスから始まる。そこから、三野によって『息』を上演したのち、有志の参加者との共同上演と録音を行った。その後、三野は『にんげんレストラン』内から実際の事故現場を回っていき『息』を上演し続け、再び会場に戻ってきてその日のパフォーマンスは終了となる。そして本パフォーマンスは展示会期中毎日行われた。録音された『息』の音は、会場内でのサウンドインスタレーションから流れる音楽として、日々更新するために使用された。

本作品はChim↑Pom『第七トーア』の音楽(編曲:涌井智仁)としても使用されたものだ。

I gives a 30-minute lecture performance involving himself and audience volunteers every day, while also presenting an ongoing installation in all space in Ningen Restaurant curated by Chim↑Pom.  “One Breath Followed by Another” is referring to Samuel Beckett’s shortest play “Breath”. This is a work based on specific research where a jumper lay in the end, at a place known for death leaps in Kabuki-cho. 

『アフターフィルム』/ "After FILM"

at SCOOL (Tokyo),  movie and photographic work  (2018)

【作品概要】

 三鷹のオルタナティブスペース・SCOOLで2018 年8 月に開催された、佐々木敦キュレーション『ものかたりのまえとあと』に出品された作品。また展覧会期中に、同会場で三野と出演者たち演出による演劇作品を発表した。グループ展の共同出品者は、青柳菜摘、清原惟、村社祐太朗。『アフターフィルム』の出演者は、小野彩加、中澤陽、深澤しほ。

 

 【あらすじ】

「最初は人間かな、って思ったら、人間じゃなかったってこと、ない?」というセリフから始まる本作は、静止したあとの身体のための物語である。登場人物の三人は、お互いを見つめあい、愛を囁きあう中で、次第に静止に近づく。だが、彼らは再びそれぞれの登場人物によって再び動かされ、終わりのない煉獄的状況を演じ続けるのであった。

本作は映像作品としてだけでなく、舞台作品としても制作されているものだ。

 

 【解説】

本作は、「見ること」によるコミュニケーションに焦点を絞り制作された。イメージ情報が溢れる現代社会において、「見る」行為は「疲れ」に瀕していると言える。だが、かつて「見る」ことは、「生死」を分けるほどの重要な身体行為であった。神話における「見るなのタブー」(日本においては「浦島太郎」や「鶴の恩返し」等で知られる神話における物語構造のこと)や、オスカー・ワイルド『サロメ』を原案に制作されたのが本作である。それらの原案は、見ることによる悲劇を描いたものであるが、本作は悲劇的な状況に見舞われた「見る」主体(彼らは往々にして悲劇的な死が与えられている)が、「見た後」どうなるのか、という想像力において描かれる作品である。現代において、見てしまったことも、それは本当のことにはならないのである(森友・加計問題における公文書問題を念頭に置くならば)。であるならば、「見た後」の物語を紡ぐことこそ、現代における芸術家の目的ではないかと私は考えている。

『Prepared for FILMを机上で再演する』/ "Replay 'Prepared for FILM' on the desk"

at Kyoto Art Center, installation work  (2018)

【作品概要】

 京都芸術センターで2018 年6月に開催された、宮坂直樹企画による『Tips』に出品された作品。また展覧会期中に、同会場で三野が出演したパフォーマンス作品を発表した。

共同出品者は、池田剛介、熊谷卓哉、小松千倫、宮坂直樹。展覧会のメインヴィジュアルデザインとサイン計画を石塚俊が担当した。

 

 【ステートメント】

“Prepared for FILM” の原案となっている劇作家・作家のサミュエル・ベケットの映画台本『FILM』のあらすじはシンプルである。登場人物は大きく分けて、カメラ役のEという役と被写体・出演者役のOという役。Eは実際に、カメラとして機能しており、観客はカメラ役のEの目となって、一緒にOを追いかける。追いかけるのは、名もない通りから、Oの実家らしき部屋の中まで。その部屋の中で、EとOはついに追いつき、お互い見つめ合い、二人が同一人物であったことに気づく。一般的に、「見ること見られること」の認識の問題を想起するこの映画において、そもそもの前提として「なぜ見られるのか/見るのか」という理由づけを強めに行い、2014年に上演を行ったのが、“Prepared for FILM” である。主に、朗読劇として制作された本作において、今回は展示ヴァージョンとしてアップデートして展示させてもらっている。ちなみに、2014年当時の理由づけには、「片思いの視線」というのがあった。だが、この理由づけという作業は、永遠に続く「大喜利」のように私には思え、あまり継続しようとは思わなかった。だが、今回再制作を行ったのは、以下の理由による。

その理由として一つ目は、机上で再演を行うことを思いついたこと。二つ目は、アーカイブの新しいあり方をテーマにしていること。そして、もしかすると、両者はある部分で通底する部分があるかもしれないということ。

一つ目に関しては、いささか同時代における政治的な理由が存在する。森友・加計問題を代表とする公文書改ざん問題において、公文書における真正性と、私が専門とする写真メディアにおける近接を感じたことが大きい。現在において写真メディアは、真正性を求めることはいささか時代錯誤だが、どちらかというとインターネット空間におけるinstagramやtwitterなどSNSの発達により、コミュニケーションメディアとしての側面が強くなっている。公文書における杜撰な管理実態や、それに関する官僚や政治家の物言いを見ていると、参照先としての真正性がより「コミュニケーションメディア化」している、という感覚を得た。閉鎖的な空間やコミュニティの中で、「その場のノリ」として操作される真正性は、だが一方で遥か昔からそのようなものである、という諦念も同時に感じざるをえない。

本作は、そのような意味での閉鎖性について考えた作品である。机上で再演すべてが完結することと、多くのスタッフや役者の協力で作り上げた作品を、たった一人の作家本人が、指人形を使って「改ざん」するように作られた。

さて、制作動機に関するもう一つの理由は、アーカイブの新しい形についてであった。

舞台芸術におけるアーカイブ、つまり記録と保存について私は明確に答えが決まっている。それは、記録は結局「ほんとうにあったこと」にはいつまでも届かないので、記録をその時代、その時、その場所で逐一再現する、ということにしてしまえば良い、ということだ。

そこで、すでに存在する本作の戯曲、記録映像、記録写真をもう一度再演するための方法として、今回の作品は作られた。もちろん、展示形式において、アーカイブとしての機能は持ちつつも、それをその場で再演することで、時代状況にアップデートすることを同時に行うこと。それが、私にとってのアーカイブ展示である。

 

映像には、最後に「これからFILMの物語が始まります」と言って最初に戻ってループし続けるのだが、そのループには「改ざん」の永遠性と、アーカイブ自体は物語が始まることができないということのメタファーとしても機能できる様に意図したものである。

"Odds and evens  ; research drawing" for TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH

at westergasfabriek, UNSEEN AMSTERDAM CO-OP, photographic work.  (2018)

 

【作品概要】

オランダ・アムステルダムにおけるフォトフェスティバル"UNSEEN AMSTERDAM"のコレクティブ・セクションとなるCO-OPという枠組みのなかで、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHの一員としての参加したもの。CO-OPでは小山泰介と、細倉真弓と共同での展示となった。

【作品解説】

”odds and evens”は、東京で作られた演劇作品だ。本作品は、原子力発電所から送電塔を使って東京に電力を供給するプロセスをリサーチした際に作られたもので、実際に舞台美術と戯曲にも使用された。TPRのテーマにおいて、東京を記録しそれを使用することに着目して本作は展示されたものだ。写真作品は、それが歴史化されて初めてその存在理由が生じると制作者は考えている。制作者は、歴史化するための方法として写真作品を使い、物語や身体の上演を目論む。リサーチは、前提であって、結果を誇るものではないが、多くの人に開かれた使えるものであってほしい、と制作者は考えているのだ。

『偶数と奇数』/ "Odds and evens"

at Waseda small theater Dorama-kan (Tokyo), theatrical work, , about 60:00  (2017)

 

【作品概要】

 早稲田小劇場どらま館にて初演された、ニカサンによる第一回公演。作・写真・演出 | 三野新 出演|大場みなみ 佐藤駿 善積元 ドラマトゥルク|山﨑健太 美術・音楽|涌井智仁 衣装|PUGMENT 照明|筆谷亮也 照明操作|沼野匠哉 宣伝美術|石塚俊 舞台監督|権田歩人 栗山なつみ 演出・制作助手|中谷優希 制作|杉浦一基 

 

 【ステートメント】

  箱を開けると、人間はろくな目にあわないものだ。  開けてはいけないと言われた箱を開け続けてきた主人 公たちの物語に、わたしたちは小さい頃から親んできた ように思われる。見てはいけない、開けてはいけない、と いう禁忌をあえて侵す物語。彼・彼女らは禁忌を犯した ことにより、さまざまな罰やみせしめを受ける。  文化人類学的に「見るなのタブー」と言われるこれら の物語の形式は、世界各地で示し合わせたように、同じ ような神話や民話の形式で継承されている。

 箱を開けるという身振りは、かような厄災を引き起こ すだけでなく、わたしにとっては、イメージが感光して黒 くなり、写真イメージを見ることができないことと同義 として捉えられるものだ。つまり、撮影されたときのイ メージが永遠に失われるのである。

「いまあなたの頭の上にある空を撮ったとして、その空は、 他の空と、写真として違うと思いますか? 同じだと 思いますか? 」

 私にとって、そこには、違いはないと考える。すべて同 じである。イメージとして。だが、全く異なるとも考える。 語りとして。物語として。この矛盾は、写真の持つ、イメー ジと物語が複雑に入り混じる特性を象徴するように思え る。

 写真家は、すべては同じであり、すべては異なるもの として写真を見ている。風景を見ている。そのような風 景が失われる瞬間が、箱を開ける行為の中に存在するよ うに思われ、私は今回の作品を制作した。そのため、改 めて、こう問われるべきだ。

「いまあなたの頭の上にある空を撮ったとして、その空は、 空を撮ったけど真っ黒になってその空が一切見えない写 真と、どう違うと思いますか? 同じだと思いますか?」

 本作『偶数と奇数』では、二つ、あるいは、三つの箱 を用意した。その箱は、最終的に開けられるための箱だ。 本作は、箱を開けるまでのプロセスと、消えてしまうイメー ジを愉しむための作品とも言える。だが、もちろん、そ れを愉しむことは、そのような意味だけではなく、演劇 としての寓意を念頭に置いている。

 ところで、今回のクリエーションで、まず一番に思い出 されるのは、スタッフと役者と一緒に、ある日リサーチに 行った海で、ウミガメの死体を見つけたことだ。ウミガメ の目から、寄生虫らしき枝のようなものが出てきており、 それが原因なのか、今まさに死んでしまったばかりのよ うだった。  わたしたちは、死んだウミガメをどのような気持ちで 見つめたか。箱は、そのすぐ隣にもあった。わたしたちは、 その箱を開ける。あなたは、どうしますか?

『幽霊の手』/ "Ghost Hands"

at Yamamoto Gendai (Tokyo), instaration work, movie, 3:09  (2017)

 

【作品概要】

 山本現代で2017 年2 月に開催された、上妻世海キュレーション『Malformed Objects - 無数の身体のためのブリコラージュ』に出品された作品。また展覧会期中に、同会場で配布された「指示書」を「戯曲」と見立てた、三野「演出」によるワークショップ作品を発表した。平倉圭を「批評」として招き、飴屋法水とワークショップ参加者が「出演」する作品。

 

 【ステートメント】

 幽霊の正体を見たり枯れ尾花 

 横井也有のこの俳句で表現されるべきなのは、幽霊が枯れたススキの穂であったことことに安堵するものではない。むしろ、その近似への発見に対する喜びにあるのである。幽霊の手は、人間の手に似ている。しかし、幽霊の手は人間の手ではない。横井の俳句は、それが現実において、幽霊の手が、人間の手に見えてしまうとき、そこに境目を見ることが出来ることを私たちに気づかせる。「境目」とは、人間であることと、幽霊であることの境界のことである。

 本作が注目するのはその揺れ動きである。自然さの中に、不自然さが貫入されるとき、その瞬間を私たちは恐怖する。例えば心霊写真を思い描いて欲しい。何気ない日常を写し取った記念写真に、あり得ない方向に曲がる腕や足。或いは、決して人がいない筈の場所に浮かび上がる顔のようなもの。

 ただ、本作はその恐怖そのものの内容をテーマとしてはおらず、恐怖を表現するための身体的方法を考える契機にしたい。なぜなら恐怖への志向は、フィクションと現実の境目に存在する身体技法より生まれると私は考えるからだ。(それはワークショップで試行・応用される)その場合、その身体技法は常に現代的な身体表現方法になりうる。なぜなら恐怖を感じさせる技術は、現代的なメディアを通じて更新されている。例えば、『リング』ではビデオ、『回路』

ではインターネットと身体との間にもたらされる境目より幽霊は表出し、我々は恐怖する。

『人間と魚が浜』のシナリオ /

Scenario of “human, fish on the shore” : installation art work

at The Univversity Art Museum, Tokyo University of The Arts  (2016)

 

 本作のタイトルである「シナリオ」とは、ゴダール『「パッション」のためのシナリオ』をレファレンスしています。

 ゴダール同様、わたしにとっても、シナリオとして再演を目的としているわけではなく、全く異なる制作、生活、批評のための資料としての「シナリオ」という意味で再構成・編集することを意図したものです。

 このプロジェクトがインスタレーションとして再制作される際、舞台で使用された写真、リサーチの資料や写真、舞台美術そのものの意味をより考えることとなりました。

 

 *本作は、東京藝術大学における博士審査展に出品された作品です。

『人間と魚が浜』

/ "Human, Fish on the shore" :

Theatrical work

at G/P gallery shinonome (Tokyo)

 (2016)

 【作品概要】

本作は、現代社会の寓意として描かれた作品です。そして、同時に人間と魚がどうやって共に生きていけるか、というコミュニケーションの方法を探究するプロセスを見せています。膨大な量の白い箱の美術は、魚の棺桶としての保冷用発泡スチロールであり、また人間と魚を繋ぐコミュニケーションの道具として使用します。

ギリースーツや、ライフジャケットのようにもみえる衣装は、現代における戦争、それに伴い海を越え移動する難民の人たちに似せています。人間と魚を巡るフィクションは、現代における日本のある特定の人々の状況を描くのに、とてもアクチュアルに表現することが出来るものでした。私たちは、果たして、人間でしょうか、魚でしょうか。

【あらすじ】

登場人物は、釣りの達人と初心者。それと二匹の魚たち。達人はただ釣りを楽しんでいる。一方で、魚たちはただ恐怖している。 人間と魚の不平等さや、暴力的で差別的な状況が浮き彫りとなっていく。ある日、魚が空から降ってきて、初心者と出会う。二人は、意志が通じ合えない中、共生の方法を探るため、様々な手段で意思疎通を試みる。だが、それも失敗して、人間達は魚達のいる場所から去っていく。その中で試された二者の関係性は柔らかに変化し、人間達がいなくなったあとも、魚達は人間達のことを考える。

bottom of page