三野 新 / Arata Mino
4月27日(日)20:30~21:00 『Prepared for Film』上演後
佐々木敦氏(批評家)アフタートーク (登壇者 : 佐々木敦×山崎健太×三野新)
山崎 今回のアフタートークは、出演者とスタッフがこの作品をそれぞれ誰に観てもらいたいか、ということで、一日目は出演者の立川くんが詩人の山田亮太さん。二日目は、ダンサーの京極さんが京都造形大時代の先生の八角聡仁さん。そして、今日三日目は、三野と僕の共通の先生というか、学生のときに三野は佐々木さんの授業にもぐっていたりしていたんですけど、あ、ちなみに、三野は個人名義になる前に、ヒッピー部という名義で制作を行なっていたんですけれど、その時からずっと観て頂いている佐々木さんにぜひとも観てもらいたい、ということでした。僕の方も、今回はドラマトゥルクという役職で今回の作品に関わっているのですが、普段は演劇の批評を書いておりまして、「批評家養成講座ギブス」というワークショップで、佐々木さんには大変お世話になりました。そこで、二人とも共通で観て欲しい方、ということで、今回お呼び致しました。という経緯です。
佐々木 今説明があったのですが、三野くんが前ヒッピー部というのをやっていまして、その頃から観ていて、今回何本目なんだっけ?
三野 6本目です。
佐々木 6本目で、そのうち5本くらい僕がトークに出てるんだっけ?
三野 いや、全部です。(笑)
佐々木 全部出てるんですね。だから、僕はずっと見守っていたわけなんですけど(笑)。前回から、三野新名義になってから、ヒッピー部は無期限活動休止となりまして、恵比寿のG/P galleryで写真展と併せてやったパフォーマンス(註:『Z/G』という作品)から初めて山崎くんはドラマトゥルクとして参加していて、その時から、僕は良かったよ、ということは言っていたんですが、その前までは、そういう感想よりも、毎回どういうことをやろうとしていたかということを、僕がお客さんに代わって聞く会みたいな感じでお話ししていたんです。でも、前回の作品で非常に良かった、という初めての絶賛が僕の口から出てきたわけなんですが。
三野 今まででの最高は、「面白くなくはない」だったんですけどね。(笑)
佐々木 「やりたいことは分かる。」という感じだったんですけど、前回は、これは、っていう感じで、絶賛なり、賞賛したんですけど、って言う流れで、今回SNACで新作ということで、しかも今日千秋楽ということで、まぁ、一言で言うと、すごい面白かったわけですよ。
三野 わぁ、ありがとうございます。
佐々木 これは、もうかなりの傑作なんじゃないですか。すごくよく考えられていると思います。なんとなく、リハーサルの過程なんかをちらほら山崎くんとか、うちのスタッフ(註:佐々木さんの主宰する音楽レーベルHEADZのスタッフ。公演会場のSNACの運営にも関わる。)なんかから耳に入っていて、大丈夫なのかと、全然できていない、みたいな話しも聞いていたので、半分くらい不安もあったのですけど、非常に面白かったと思います。これは、ぜひ色んな形でどういう風に作っていったのかということ、こういう機会なんで聞いていってみたいと思っているんです。で、今回サミュエル・ベケットの作品『フィルム』という映画の台本を原案にしているのですけど、この『フィルム』っていう作品は、ベケット唯一の映画作品でyoutubeとかで、映画自体も観ることが出来るんですね。バスター・キートンという有名なサイレント映画の役者が出てくる。というか、基本的にキートンしかほとんど出てこない。今回の作品は、その『フィルム』をある意味でなぞっているわけなんだけども、まず、なぜ『フィルム』をやろうと思ったか、ということを聞いた方が良いのかな?
三野 まずベケットをやろうと思ったのは、僕と山崎くんとの共通の恩師である岡室先生というベケット研究者の権威がいらっしゃいまして(註:早稲田大学文化構想学部教授/早稲田大学演劇博物館館長である岡室美奈子教授)、僕は岡室先生の影響で大学で初めてベケットに触れたんです。そっからずっとベケットにハマって読んでいた時に、『フィルム』には写真が出てくるんですね、『モノローグ一片』とかにも出てくるんですが、僕はその『フィルム』に出てくる写真が、なんて曖昧なんだろう、ということが気になっていて、例えば、ベケットってよく言われるようにとても厳格な指示をする作家――例えばここで3秒の間、とか45度の角度で、などなど――だと思っていたんですけど、写真の記述をする箇所はかなり適当、というか、『フィルム』では例えば、写真には二人写っていて、そのうち一人がお母さんの顔を見つめています、とかくらいで、被写体に対する必要最低限の何が写っているのか、という説明だけが書かれているんです。そうなってくると、僕は写真家なので、写真をこんな簡単に書いちゃっていいのか?っていうことが気になっていて、『フィルム』に関しては、写真がらみのところの違和感みたいな所から、ずっと気になっていた作品ではあったわけです。それに加えて、『フィルム』には、視線の問題をテーマにしている所があって、写真家になってその問題はずっと考えていたんですけど、なかなか『フィルム』に対して呼応できるような考え方、表現を思いつかなかったのですが、最近になってようやくできるな、というよく分からない確信が出てきて、今回の作品に至った、というわけです。
山崎 ドラマトゥルクという役職をやっているのですが、僕は普段大学院生でベケットの研究をしているのと、担当の岡室先生はベケットの専門家なのですが、そういう理由もあって僕はやりたくなかったんです。(笑)というのも、半端なことが出来ないからですね。そのことに加えて、最初のアイディアを聞いた時に、朗読劇をやる、っていうことと、京極さんというダンサーを使って最後のダンスシーンをやる、という、全く『フィルム』となんの関係があるのか、ということを最初に聞かされたので、大丈夫かな、と。でもまぁ、引き受けたからには、ということで、始まっていきました。
佐々木 でも結果的にというか、ずっと京極さんがカメラをやっていてダンサー的なことをなかなかしないから、今回はカメラに徹する(註:ダンサーの京極朋彦は、前回の三野作品『Z/G』でも出演している)のかなって、ただ敏捷に動くということを押していくのかな、とも思いましたけど(笑)、あの最後のシーンが決定的なわけですね。このシーンによって、この作品がいったいどういう作品であるのかということがわかるわけです。今さっき朗読劇をやる、ということ言っていましたけど、というのも、『Film』にはテクストがあって、ベケット戯曲全集の3巻に入っているんですけど、あれはでもテクストというよりシナリオなんです。シナリオがこの会場にもこういう風に貼ってある。それを朗読をするということで、演劇をする、舞台芸術として人に見せるとしてやっていこうと思ったのは、制作の前段階ですでに考えられていたということですね。
三野 そうですね。でも山崎くんに話を振った時点では、心配だったと言ってましたけど。
佐々木 そりゃあ、心配でしょう!三野くんと一緒にやる人はみんな心配だよ。(笑)
三野 ただ自分の中ではすでにやろうとしていることが明確にあって、それは作っていく中でも変わっていないんですよ。制作のやり方としてはまず初めにプロットを山崎くんに見せて、撮影に入って、撮影から脚本を書いて、また山崎くんに相談して、そのあとも稽古に入るまでに稿を重ねるときもちょくちょく見せているので、回を重ねるごとに山崎くんにもジャブを入れながら進めてくるということをやりました。これで良いかな、良いかな?みたいにはやってたんですよ。ねぇ、山崎くん?
山崎 不本意な話の振られ方をしたんですけど。(笑)2月くらいから三野から脚本を見せてもらって、それについてコメントをつけてやり取りをするというところから始まって、そのあと稽古に入ったら、稽古を観ながらもやり取りをするという感じでした。基本的に前回の作品でもそうなんですけど、三野の出してくるものは情報過多というかやりたいこと全部を入れこむような内容なんです。
佐々木 前作の『Z/G』のときに、丁度一緒に旅をしたことがありまして、その時にスクラップブックをね、膨大なノートと一緒に見せてもらったんですよね。そしてそれが最終的な作品においてはあまり残らないっていう。(笑)
山崎 整理があまりついてないんじゃないか、とこっちとしては思うので、むしろ分かってないのは三野なんじゃないかというふうに僕としては思うわけです(笑)やり取りとしては三野が色々出してきて、俺が整理するっていう順序が必要だった。
佐々木 頭を整理してもらうっていう。(笑)でも、それがドラマトゥルクの本来の仕事なんだよね。
山崎 ただ、出演者は最初ビックリするというか、バトルするみたいになっているんで、大丈夫だったかなって思うんですけど。
佐々木 えっと、皆さん観てみて、OとEっていうのが出てくるんですけど、Oって言うのはobjectのOで、Eって言うのはeyeのEなんですね。それが、Eは最後まで出てこないんだけど、Oが撮られる対象としてずっと出てくるのが本来の『フィルム』なんです。ただ、この作品で特徴的なのはテキストを読んでいくってことなんだけど、さっき視線っていう話がありましたけど、視線があるっていうのを言いかえると、見るものと見られるものがあるっていうことですよね。その時に、この作品はEが二つになっているということがありますよね。見ている人もいるんだけど、カメラ自体も京極さん(ダンサー)としての存在もあって、実はその見るものがダブルになっている。そのことによって、途中からOも二人になっていて、入れ替わったりするような構造になっていく。そのことがある意味では、元のベケットの作品と大きく違う点にもなっているわけです。それって、どっから来たのかなっていう疑問があるんですけど、どうなんでしょうか。
三野 最初の山崎くんの打ち合わせの時に、僕が二人出したいんだけど、って言ったら最初にやっぱりそのことは突っ込まれました。
佐々木 それ、一人じゃね?みたいに(笑)。
三野 たしかにそうかもな、っていうのはあったんですけど、二人っていうのは、僕が写真をやっているからっていうのは強いんです。いまここに展示されている大きな写真は二枚ずつで展示されているんですが、僕はそれが一枚だけだと写真が写真として機能できないと考えていて、それが二枚になることでやっと比較できる。比較できることで、写真がそれぞれの役割をお互いの影響によって決めることができて、作品として機能するようになる。劇中にも、二枚の写真で機能していくように進めていっているのですが、それは出演者が二枚の写真をモンタージュする身振りであったりがでてくるのですが、僕にとってのOというのは写真が二枚あって初めて機能するように、二人いることで比較するってことを念頭においてキャスティングした、というのがあります。
山崎 今の話は、初めて聞きました。こうやって話していると、初めてのことがいくつもでてくるんですよ!(笑)例えば、片思いの話もチラシが出来てから初めて聞かされたりしました。
佐々木 片思いの話も、原案の『フィルム』だと、なんでひたすら見られて、追いかけられているのか、っていうのは謎といえば謎で、それ自体が一種の不条理として出てくる作品なんだけど、今回の作品では要するに恋愛の構図に変えているんだよね。好きだから見ちゃう、っていう風に。僕はそれが良いと思った。男女が出てくるっていう意味も出てくるから、良いと思ったんだけど、そこは最初からあったっていうこと?
三野 ステートメントにも書いてあるんですけど、撮影行為っていうのが片思いの構造として取り上げられているんですが、実は僕が好きなメディア、それは写真であったり映像、映画、小説であったりは、すべて片思いの構造を持っているんです。一方的にひたすらそれに向けて愛を注いだ所で、それ自体からは返ってこないという構造。写真を撮って写真を見た時に、僕はこの撮った写真が大好きなんだけど、写真からはその返答が生き物ではないから返ってこない。もちろん個人的な実際の異性への眼差す経験もあった上で、そうなんですが、『フィルム』の視線の問題を取り上げるうえで、きっとそれは片思いの構造がそのまま使える、と考えて、今回はその構造を取り入れることにしました。
佐々木 立川くんと菊川さんが喋る、一番最初のところはどこまで仕組まれていることなんですか?
三野 最初はかなりギチギチに書いていました。
佐々木 書きがちだよね。(笑)
三野 書いた後に、同じようにガチガチに読んでもらった後に、ペグワードみたいに、よくプレゼンとかで次の話すことを思い出すために、センテンスを原稿に書いておくことをするんですが、そういう風にセリフをどんどんセンテンスとして置き換えていって、最初のセリフは忘れさせて、っていう感じで稽古しました。
佐々木 んじゃ最終的に、各回ごとに違うこと言ってたりしたの?
三野 全然違いました。
佐々木 それは意図的にってことだね。
山崎 そうですね。稽古ごとにも違う話になっていました。
佐々木 『フィルム』って、最初にバークレーの「存在スルコトハ知覚サレルコトデアル」っていう前書きがあって、要するにそれをやってみせている作品なんですが、あれって、見られているだけじゃなくて、撮られているわけでもあるんだよね。見るってことと、撮るってことは普段は違うわけじゃない。映画にしても写真にしても、カメラを通して見るってことは、単に見るだけじゃないんだよね。見るってことがその見ている人のイメージを固定して残すみたいになっている。ベケットの『フィルム』って、あたかも見る=知覚っていう風に見えるけど、でもそしたらなんで映画なのかっていうことがでてくるんです。ただ、そこから、見る見られる、っていう次の段階として、撮る撮られるっていう構造を引き出すことは出来ると思うんです。今回の作品では、そういうことがクリアに暴き出されていたな、っていうのはありました。それがすごく面白かった。
三野 『フィルム』でやろうとしたときに、「存在論」「実在論」とか、哲学的なテーマもすごい存在する作品なんですが、最初はそういうことも散りばめようかなとも思っていたんですが、山崎くんと一体何を一番見せたいのか、っていう話をしていて、僕は「視線」の問題をまず一番に見せたいっていうのがあって、だったらそっちにどんどん絞ってやっていこう、という風に焦点を絞っていったというのがあった。だから、この作品は、「視線」のみを扱う、というシンプルさというのを目指して作られたものです。
佐々木 最後に、映像が早回ししていくじゃん。それって最初から決めてたの?
三野 そうですね。ただ、物語の冒頭のシーン、カメラと映像を入れ子の構造にするように見せるとかは、山崎くんとの話し合いで決めていきました。
佐々木 この最後の早回しのシーンて、そういう仕掛けが作ってあるっていうこと?
三野 いえ、これは単純に再生、ですね。再生ボタンを押して、っていう。最初は、「再生」っていう文字を映像に付けてやろう、って考えていたことがあるんですが、結局、再生ボタンをオーディエンスに見せて早回しを始めれば、その文字はいらないだろう、という形になりました。
佐々木 劇中ずっと追っている視線は録画されていて、さらにその追っている動きを最後に京極さんがなぞる形で、高速で動いていくっていう形になっている。これは、やっぱりすごく虚をつかれたという感じ。暗くなって、違う部屋に行くから、これはもう終わりなのかな、って思って、このままポワンって形で終わるのかなって思って、それはそれでありかな、とも思ったんだけどね(笑)。ただ、この最後の加速シーンは良いアイディアだなって思って、この表象のアイディアってのは、ベケットが『フィルム』を作ってからもう何十年も経っていて、当然こういう技術は当時は使えなかったわけだし、そういう意味でいうと、ヒッピー部の時からずっとそうなんだけど、三野くんの作品は、写真と写真以外のジャンルを無理くり繋いだ上で、その繋いでいる部分を何らかのテクノロジーを使って補完している部分ってのがあって、今回はシンプルなアイディアなんだけど、うまくいっていますよね。
三野 自分の手を離れたテクノロジーを使っちゃうとダメなんで、身の丈にあったテクノロジーでないとダメだな、って思って、今回はゴープロ(小型カメラ)を調べて、これなら使える!ってことで、使ったんですよね。
佐々木 もう一つ聞きたかったこととしては、なぜOが二つに分かれるのかっていうのが一点と、もう一つは、タイトルが『Prepared for Film』ってなってて、これって、「フィルム」のための準備っていうことになるわけじゃない。でも作品自体はある意味で再現をしているっていう構造になっている。この「prepared」という言葉が、作品を作る上でどういった関係性をもっているのかってことですね。もしくは、一応タイトル付けといて、その後違うものになっていって、それはそれでオッケーかな、みたいな感じもよくあるので、そういう風になったのか、とか、どうなんですかね?
三野 それは明確に関係性があります。最近個人的に写真を資料として考える機会が増えてきて、当パンにも書いているのですが、ベケットの『フィルム』を撮ろうとしている架空の映画監督だったり、映像作家を想定して、その人のために僕が助監督的に準備してきました、的に作ろうとしたんです。こういうのどうっすかね?っていう作品にしようとしていたのが、今回のタイトル『Prepared』の部分である、っていうことになります。それは、最初の部分からありました。そのことに加えて、僕は写真を挑発的資料だと考えていて、それをちゃんと挑発できるか、人を対象に伝えられるのか、って時に、写真と人との間に身体を介在させて、プレゼンテーションしたものをオーディエンスが受け取るという形にしたかった。もう一個は・・・えっと時間大丈夫ですかね?
佐々木 いいよ、気にしなくて!むしろ言ってくれ!(笑)
三野 最初に、山崎くんと打ち合わせた時に、山崎くんからこの作品は「After Film」なんじゃないか、っていう提案がありました。この作品はデジタルの技術がないと出来ないものですし、「フィルム」以後の作品ではある、ということもあった。ただ、僕は一周回って、ぐるっと同じ所に戻ってくるように、でも明らかに最初のスタート地点とは違うということと同じように、今改めて映像や写真イメージを見つめるということは、デジタル以後だからこそ、根源的なものとして改めて見つめていかなければならないという風に考えていたわけです。それは、まさに「フィルム」の時代に見つめていたイメージを改めて見つめることと重なっているわけです。
佐々木 ぐるっと回って、もう一回準備するってことだよね。
山崎 僕が見てて何が「prepared」なのかって思ったかっていうと、映像を撮っているんだけども、それは見られているっていうところ。つまり、映画作品の準備なんだけど、それを全て見られている構造があるなっていうことが一つあった。それと、「翻案」っていう意味でも、プリペアド・ピアノとか楽器や音楽でも使われていますけど、映画をパフォーマンス作品に翻案=preparedするっていうところで思いました。最初はだから「After Film」っていうのが良いんじゃないかって思ったんですけど、別にその後相談しなかったけど(笑)、「Prepared」でも全然いいなぁって思ったんですけどね。
佐々木 折しも山崎くんから映画を翻案する、っていう話がでてきたんですが、三野くんの作品をずっと見させてもらっていて、写真家なんだけど、こういうパフォーマンス作品を作っているんだよね。そのモチベーションやエネルギーみたいなもの自体も、結構謎なんですけど、でもやっているわけなんだよね。いつも作品を観た人から、なぜパフォーマンスなのかって思うことなんです。写真ってスタティックな(静的な)メディアなので、一番パフォーマンスから遠いと思われている。もし映像だったら、そこに時間という軸が生じるし、パフォーマンスになってくると現前性とかいう要素が入ってくる。でも、三野くんは写真を手放すわけではない。つまり、写真家なんだけども写真以外の作品をやっています、ということではなくて、常に写真家として作っているわけなんだよね。その意欲や手つきっていうのは、こんだけ沢山観ているとどんどんうまくいくようになっているように見えるんだけど、これからどうしていくのかな、っていうのが気になる所なんですけど、どうなんですか?
三野 えーっと・・・。
佐々木 例えば、この作品って最後まで観ていると、誤解を恐れずにいえば、知的に理解できる作品と言えるわけじゃないですか。それが全然悪いわけじゃなくて、むしろそれが強みなのですが、恋愛という要素も入れている。しかも、ちょっとウェットな部分もあるわけじゃないですか。そういう部分とかを、もうちょっといじったら、演劇的にというか、ドラマ的にというか、もうちょっとそういう風に作ることって可能だと思うんですね。つまり、もうちょっと泣かせる方向に持って行くとか。そういう風に、一種情緒的なというか、ドラマ的な可能性というのを全部切っている感じがするんだよね。それが悪いって言うことじゃないんだけど、そこら辺のバランス感っていうのは、言いようによっては絶妙でユニークと言えるし、もう一方では、惜しい、とも言える。一番最初に、立川くんが、発表します、って言ったじゃない。三野くんの作品って、公演っていうか、発表みたいなんだよね。三野くんもよく、プレゼンってよく言うじゃない。プレゼンを観ているように思える時がある。別にそれが悪いってわけじゃなくて、むしろ、そういうことを、演劇なり、パフォーマンスである、っていう断言をするところが面白かったりするわけなんですけど、そういうことを含めて、今後どうするのかな、っていうのを聞きたいんだよね。
三野 ウェットなところっていうのは、今回はテーマを絞ったって言うのがあったので、かなりカットした部分は多いんですけど、今後は全然やぶさかではなくて、どんどんやっていきたい、と考えています。
佐々木 それはそれで、ちょっと大丈夫?って思っちゃうんだけど!(笑)
山崎 最初の脚本では、それこそ演劇的なセリフが沢山あったんですね。導入部分は全部残しているんですけど、特に後半部分はやっていくうちにカットしていくという方向でやっていきました。
佐々木 後半部分は、ほぼ読んでいるだけになっていくもんね。
山崎 そうです。さっき三野も「視線」の問題に焦点を絞るって言ってましたけど、そっちをやるんだったら、そういうところはうまく回っていない、という話になってカットしたんですけど、あっちをやりたいの?
三野 あっち「も」やりたいんだよね。
佐々木 あっち「も」、ってどっちだよ、っていう(笑)。
三野 写真から考えた時に、身体のことも考えるようになって、物語や劇的なものも考えるようにもなっていったわけなんですが、そこからさらに物語を考えるようになると、今度は再び写真のことも考えざるを得ないというふうに、ぐるぐる回り始めるようになっていったんです。そこで、一つの枠をがんってテーマとして付けるんじゃなくて、設計図段階の時は、本当になんでも来い、っていう風にして、制作に入る上で、どんどん焦点を絞っていく、という風に作っていければいいな、って考えるようになりました。だから、ウェットなところっていうのは、もしそこに焦点を絞っていくのであれば、全然やっていきたいんです。いままでの自分自身のテーマとかと照らし合わせて、それが重要であれば、もちろんやっていきたい、ということです。いままでは、逆にその部分ってのは避けていた感覚があったのですが、これからはフラットに考えていけるのではないか、ということを聞いていて考えていたことはあります。
山崎 三野が書いた演劇的な部分って言うのが、なんか嘘くさいというか、わざとらしいというか、それも含めて全部プレゼンみたいになっている。つまり、とても狙いが明確なセリフになってしまっている。そういうものじゃないってことだよね?
三野 そういうものじゃなく、もっとちゃんと頑張ろうと思います。
佐々木 話を戻しますけど、本当にこの作品は他の人に作れないようなものに遂になってきた。元々ある意味ではそういう要素がないわけじゃなかったけど、作品としての強度を獲得していると思うし、何より素晴らしいと思ったのは、最後に京極さんが目の前で踊るっていうことと、映像が目の前で同時に展開されるっていうことの驚きと感動というのは、他では得難い非常に特殊なタイプの感動だった思うので、今後この作品を基盤にして、このでこぼこコンビの(笑)第3作目にも大変期待しております。ってことで、今回のアフタートークはおしまいにしましょうか。
山崎 ちょうどまさに、30分経った所でした。ではでは、本日は最後までありがとうございました。